<1.自然と建築>
「人、樹木、花、鳥、光」すべてが同朋
人は古来より「人間と自然の間に境界はない」という自然観と共に生きてきた
それは建築的観点においても感じられる
「自然との合一」を求め、造園との関係性を築き、四季と共に暮らしてきたからだ
元々、建築は自然から人間を護るものとして誕生した
雨風、暑さ寒さを凌ぐものとして「屋根」を架けたのが始まりだ
竪穴式住居には壁がなく、周囲に土を盛り、柱を建て、屋根を架けただけであった
やがて壁が立ち上がる
しかし壁は必要最低限とし、柱や梁を軸に自然と共生する為「透ける建築」として変化し続けてきた
その本質は「自然と建築を一体的に捉えられてきた」ところにある
私は建築や造園の中を歩いて行くとき、それらがどのように変化していくか、この移動に合わせて展開してゆく一体的な空間の豊かさに魅了されるのだが、それは「透ける」という要素が大きく作用している
すべてが自己の身体感覚に溶け込んでいくからだ
一方、現代の自然観はどうであろうか
営利や効率を優先する資本主義は、人と自然を分断し、制御可能なものとして錯覚しているように思われる
地震、台風、豪雨、ウイルスなど、震災の度に、様々な破綻が露呈してきた
そもそも自然とは完全に中立なのであって、人にだけ、都合の良いようにできていないのだ
寧ろ人の身体もまた、自然の一部であり、対峙するものではないことを忘れてしまっている
それは建築においても同様ではないだろうか
近代は機能的、合理的であることに拘り過ぎ、大切な「感覚の世界」である自然を排除した結果、天候に左右されない不自然な空間が都会だけでなく、郊外まで広がっている
更には狭い敷地の中で駐車場の確保が造園の領域を浸食し、開口部の少ない高気密高断熱建築が造園との関係性を削ぎ、「感覚の世界」の遮断を加速させてしまった
近代建築もまた経済に飲み込まれ「効率、合理性、生産性」を求めるあまり「自然との合一」を蔑ろにし、全てを人の意識で制御可能なものとして錯覚しているように思われる
そうした失われたものの「再生」として、先ずは自然に対して畏敬の念を抱くこと
そして「自然から思考が始まり、次に建築を思考していくべき」であろうと考えている
<2.造園 ブリコラージュ>
造園家の仕事を見ているといつも羨ましく思う
彼らは素材の選定をしながら、その特性を見極め、配置や向きを決めていく
その過程も試しては変更し、楽しみながらながら施工している
フランスの民俗学者 レヴィ=ストロースは著書『野生の思考』の中で、論理や設計図に基づき無駄なくものを作る「科学的思考」とは対照的に、その場で手に入る寄せ集めの材料を部品とし、試行錯誤しながら最終的に新しいものを作る思考を「ブリコラージュ」と名付けた
絶えず揺れやズレを持っている「ブリコラージュ」は、人間性が厚みを持って入り込んでくることを容認する
完成が無い為、次々作り続け、豊かな文化が形成されるという
「ブリコラージュ」は正に造園空間の形成のされ方であり、「科学的思考」は建築空間の形成のされ方であろう
造園空間と建築空間が緩やかに繋がっていくことで、揺れやズレを持っている寛容さと、高度な科学技術の達成を兼ね備えた、より良い空間が作られるのではないかと考えている
<3.建築 「荒々しさ」と「緻密さ」>
建築は本来「荒々しさ」と「緻密さ」の振れ幅の中に、豊かな空間が存在するのではないだろうか
現在、建築が産業化される中で「荒々しさ」は嫌厭され、生活の中から失われていった
しかし私は不均質な「荒々しさ」に魅了される
そこには「生物の多様性」が豊かさを生み出すように「消費されない唯一無二なもの、壊れるものの儚さ、いのちを知るような感覚」があるからだ
そこで造園空間と建築空間が境界無く緩やかに繋がっていくよう、生命感溢れる「荒々しい素材」を選定し「緻密に施工」することを心掛けている
また造園と建築が接する部分は、造園的な納まりになるよう細心の注意を払い「自然との合一」により近づけることを試みている
「空間は頭で考える概念的なものではなく、
切ったら血の出る瑞々しく受肉したものである」
西澤文隆さんの著書「建築と庭」での言葉だ
論理的思考や小手先の技術から、心震わせる空間は生まれない
本能的、動物的な感覚に突き動かされながら設計し、施工することで生まれるはずだ
自然の力強さ、怖さに畏敬の念を持ちつつ、光や風の恩恵を受けた建築の可能性を追い求め、敷地全体、更に隣も、その向こうも、風土の中に全てが繋がり溶け合った空間を目指していきたい